進撃の巨人の考察~虐待サバイバーなフェミニストの視点から~

エンターテイメント

アニメ「進撃の巨人 The Final Season Part2」終わってしまいましたね、、(´;ω;`)!本来この考察記事は、アニメ派に配慮してアニメ完結後に載せようと思っていたものですが、社会情勢を考慮していち早く公開することにしました。というわけでネタバレが嫌な方はブラウザバックしてくださーい!

ちなみにわたしは2021年12月に、「そういえば6年くらい昔に単行本を何冊か読んだけど、完結したらしいし、なんか気になるな…」と全巻買って一気読みしました。本考察は2022年1月ごろから書き始め、3か月間何度も加筆を加えて作成しています。

考察の前に:主題の確認

進撃の巨人の主題は、「何かに支配され、奴隷状態でいることからの解放、そして自分の人生を自分で作っていくこと 」だと私は考えています。※追記:2022年1月、諌山先生のインタビュー再放送を視聴しました!「主題は抑圧からの解放」とおっしゃっていましたね!

始祖ユミルは自分を拷問し虐げてくる夫への愛を捨てられず、ミカサは愛するエレンをいつも守護することを目的に生きてきました。

しかしエレンが「自分にとって大切な人たちを勝手に悪魔の末裔だと決めつける壁外人類を殲滅することで、大切な人たちだけに自由な未来をもたらしたい」と考えて人類虐殺を始めました。(これを嬉々として行っていたわけではなく、泣きながら、これから殺すことになる人々に謝りながらの選択でした)

ミカサはいつもエレンの命を守ってきましたが、人類虐殺は間違っていると考え、自分の手でエレンを殺します。これを見た始祖ユミルは救われた気持ちになり、「道」の中で夫・フリッツ王を守らない選択をし、成仏します。

「何かに支配され、奴隷状態でいることからの解放、そして自分の人生を自分で作っていくこと」というメッセージとしては、他にも作中に以下のようなものがあります。

①ユミルからヒストリアへの台詞

「生まれ持った運命なんてねぇんだと立証してやる!」

「自殺して完全に屈服してまで…お前を邪魔者扱いした奴らを喜ばせたかったのか!?何でその殺意が自分に向くんだよ!?

その気合がありゃ自分の運命だって変えられるんじゃねぇのか!?」

②モノローグ

「人類が明日も生きられるか それを決めるのは人類ではない すべては巨人に委ねられる

なぜなら人類は 巨人に勝てないのだから

だがある少年の 心に抱いた小さな刃が 巨人を突き殺し その巨大な頭を大地に踏みつけた

それを見た人類は何を思っただろう ある者は誇りを ある者は希望を ある者は怒りを 叫びだした

ではウォールマリアを奪還したなら 人類は何を叫ぶだろう

人類はまだ生きていいのだと 信じることができるだろうか

自らの運命は自らで決定できると 信じさせることができるだろうか」

この「支配からの解放」というメインテーマ以外にも、下記のサブテーマが込められているとわたしは勝手に感じましたので、「戦争・人種差別・毒親(親)との確執・反出生主義・血統主義・ジェンダー・PTSD」に分けて考察を載せます。

戦争

一貫して伝えられるメッセージは「親が子に憎しみの連鎖をもたらす罪深さ」「戦争を願わなくても戦争が続いてしまう人間の業」。特に憎しみの連鎖についてはガビを取り巻く人間関係の描き方が秀逸でした(当サイト記事:ガビとかけてぶつかりおじさんと解くもぜひご覧ください)。

潜入した壁内で南方マーレのなまりでしゃべるブラウス家に何度も助けてもらいながら、壁内エルディア人への悪魔呼びをやめなかったガビ。自分をかばう何人もの壁内エルディア人に会い、やっとガビが自らの思い込み(祖国で染め上げられた思想)の過ちに気が付きかけた時に、今まで一番助けてくれたカヤが自分を殺そうととびかかってくる。

カヤがガビにずっと優しくしていたのは、カヤの命の恩人であるサシャ・ブラウスのような人間になりたいと思っていたから。そんなサシャを殺したのは自分。その後、ガビは初めて「悪魔は私だったんだ…」と悟ります。

サシャを殺害したのがガビだと判明した際、サシャに想いを寄せていた(カヤいわく二人は恋人同士に見えた)料理人・ニコロがサシャのお父さんに包丁を手渡します。あなたが仇を打ってくださいと。

しかしお父さんは包丁を置いてこんなことを語ります。

「サシャは狩人やった。こめぇ頃から弓を教えて森ん獣を射て殺して食ってきた。それがおれらの生き方やったからだ。

けど同じ生き方が続けられん時代が来ることはわかっとったからサシャを森から外に行かした…。

んで…世界は繋がり兵士んなったサシャは…他所ん土地に攻め入り人を撃ち、人に撃たれた。

結局…森を出たつもりが世界は命ん奪い合いを続ける巨大な森ん中やったんや…。

サシャが殺されたんは…森を彷徨ったからやと思っとる。

せめて子供達はこの森の中から出してやらんといかん。そうやないとまた同じところをぐるぐる回るだけやろう…。

だから過去の罪や憎しみを背負うのは我々大人の責任や」

約2ページを使ったこの台詞を受け、少し後にニコロは、ガビとカヤに向かってこう言います。

森から出るんだ。出られなくても…出ようとし続けるんだ…」

これはアニメ Final Season Part2 84話「終末の夜」でも描かれていましたね。各々の正義のために対立する彼らの会話を描きながら、鬱蒼とした深い森の描写を何度も取り入れていました。森から出るのがどれほど難しいかが伝わってくるようでした。

また、特徴的なのは、実際に戦地に赴いていない人間の方が戦争をしようとする考えを持っていること。言い換えれば、より地獄を経験した人たちこそ和平の道を目指そうとする傾向にあります(地獄を生き残ったうえでのフロック陣営もいますが主人公としては描かれない)。作中でも「マーレ国民にとっての戦争は字だ。新聞を読んでいれば領土が増える」という台詞があります。壁内側も、兵士でもない、外の世界を何も知らない人達が「エレンに壁外を滅ぼしてもらおう」という考えと民族主義に盛り上がります。

わたし自身、高校生の頃には「歴史を学ぶ理由」を独自に考案していました。それは過去に何があったのかを知り、何が原因でどんな悲劇を起こったのかを踏まえて、今後はそれを繰り返さないようにするためにするためだ、と。なのでその頃から既に、国内外問わず偏った歴史教育や、ナショナリスト・レイシストに反対する立場でした。

元彼の中にも、のちにレイシストだと判明した人がいましたが、彼は日本を出たことがなかったし何の第二言語も習得していませんでした。そして日本が一番素晴らしい国なのに他国の言葉や文化を勉強しようとも、行きたいとも思ったことが無い、と言っていました。

(労働者階級や田舎出身者、低所得で教育に恵まれなかったものが右翼化しやすい傾向の問題、およびそれを高学歴左翼が馬鹿にして見下す問題などは一旦置いておくとして、)

作中では「まだ話し合っていないじゃないか」「僕らはお互いのことを知らなさすぎる」という台詞が反復されます。「分からないものを理解するのが調査兵団だ」とも。

実際に、壁外人類は壁内人類との話し合いなど試そうともせず、「壁内人の悪魔どもを根絶やしにすれば世界が平和になる」と決めつけ、記憶を改ざんされて何も知らない無垢の壁内人類に世界中のヘイトを集め続けました。エレンの生得的異常性(駆逐願望)については後にも触れますが、ここまでヘイトされなければ、地ならしなど起こさなかったかもしれないわけで。

以下は地ならしが迫りくる中のマーレ兵の台詞です。

「この責任は我々すべての大人達にある。憎しみを利用し憎しみを育て続け、憎しみに救いがあると信じ…

我々が至らぬ問題のすべてを『悪魔の島』へ吐き捨ててきた…その結果…あの怪物が生まれ…

我々が与え続けてきた憎悪を返しにきた…

…もしも再び…未来を見ることが叶うなら二度と同じ過ちは犯さないと…わたしは誓う。再び…明日が来るのなら…。

皆も…どうか誓ってほしい。憎しみ合う時代との決別を。互いを思いやる世界の幕開けを…」

天と地の戦いが終わった後も、戦争が続いてしまう描写が最終話までありますが、アルミン達平和大使は森から出ようとしつづける存在でした。

2022年現在、ロシアのウクライナ侵攻により「戦争」は世界大戦を経験していない層にとっても身近なものとなってしまいました。(他の国でも民族紛争などの内紛や、そこに大国が支援を出すという間接的な参加をした戦争はありましたが、核大国が主導する侵攻という意味では21世紀初であり第三次世界大戦の恐れも指摘されていますね)

今まさに憎しみの連鎖が日々量産されている中で、森から出るにはどうすれば良いのでしょうか。進撃の巨人という作品が出した答えはやはり「対話」であり、わたしも、それ以外のソリューションを見つけられていない状態です。(こちらの記事で紹介している本には、どうすれば対話を叶えられるかのヒントが散りばめられていました。今一番おすすめの本です)

アニメ Final Season Part2 85話「裏切り者」 では、アルミンの口が撃ち抜かれ、彼の瞳が常に何かを訴えかけようとしているのが印象的でした。決して、撃たれて意識が朦朧としているだけのうつろな瞳ではなく、「説明させてくれ」「話し合おう」と訴えかける瞳だと感じました。反出生主義の欄でも書いたようにアルミンは対話によって世界を救った英雄なのですが、その声を奪われるという皮肉な描写でしたね。どれだけ瀕死でも、もし口さえ無事だったら、「まだ…話し合ってない…」とかうめくことが出来たと思います。彼ならそうしたと思います。

とはいえ「対話」って難しいですよね。片方でも武力をちらつかせていたら対話は成功しませんし。わたし自身、思想の内容に関係なく、発言が攻撃的すぎる人や、監視行為を公言している人(のフォロワーも監視に共謀している可能性がある)などは怖いのでブロックして自衛せざるを得ない状況です。当サイト利用規約に書いてますが。

それでも「対話し森を出る」ために何か具体的なアクションを起こせないか?ということは記事の最後にまとめましたが、他の章も読まないと理解できないと思います!(笑)分かりやすさを追求して思考停止でも楽しめる記事、嫌いなんですよね。ツイフェミが作品に放火するとかいう極端な思想に染まる前に、わたしのこの渾身の考察を迷路のように全部読んでほしいので。まぁ5分弱のYoutube動画を数十秒しか再生せず低評価を押した10代~30代の男性が100人近くいることをアナリティクスにより体感しているので、「コンテンツの中身を把握する」って意外とハードルの高いことなのかもしれませんが(えぇ…)(クリエイターに放火すんのやめようね、わたしもやってないし)

人種差別

マーレ人がエルディア人を嫌悪する理由は「過去にエルディア帝国の支配下にあった際に民族浄化をされたから」。「ユミルの民を増やすために無理やり望まない子を産まされ続けた」というのがマーレ側の言い分です。

それに対してクルーガーは「本当に1,700年も民族浄化が続いていたのなら、今頃エルディア人以外の民族は髪の一本も残っていないだろう」と発言しています。

実際、進撃の世界ではエルディア人とマーレ人以外にも、様々な種類の民族が多様に存在しています。しかも、2国のどちらが正しいという描写や、他の国から客観的に見て書かれた歴史などは作中に存在しないのです。

これはあえて読者を「どちらの国が正しいとも言えない」状況に置いているのだと思います。

ただ、現在のマーレが壁外エルディア人に行っていることは、あまりにも理不尽で残酷な人種差別で、「やられたからやり返す」の正当性すら残らないほどの行為に見えます。そんなマーレ人とエルディア人はどうしたら和平に近づけるのかーそのヒントとして描かれていたのがサシャとニコロの交流だと思っています。

進撃の主要キャラクターはそれぞれにしっかりとした人物設定があり、簡単にラベリングできてしまう性格ではないところを魅力的に感じています。ところがサシャはいわゆる「食い意地キャラ」でした。他にもサシャをサシャたらしめる設定はありましたが、食い意地要素に関してはギャグのために入れられているのだとばかり思っていました。それがとんだ伏線だったわけです。

マーレ人捕虜として壁内にやってきた料理人・ニコロがマーレ料理を作った際、淡水しかない壁内で育った104期達は、初めて見る海鮮料理を不気味に思って手を付けられません。しかしサシャが真っ先に食事をはじめ、あまりの美味しさにがっつき、それを見た他の104期も後に続きます。あれがまさに、理解しあえない人種をつなぐという食の役割を描写したシーンでした。

ニコロ自身も、料理を作ってあんなに胸が躍った経験が無く、自分に料理人としての夢を思い出させてくれたのがサシャだった。ということで、壁内のエルディア人とマーレ人が和解を深めていくきっかけとなる大事なシーンです。

「異文化交流・異文化理解促進」のために食のイベントが開かれることは多いですし、わたし自身も参加したことがあります。やはり食を通じて達成できる平和の可能性を軽視してはいけないなと再確認したものの、現実のイベントでは料理が美味しかったという感想で終わってしまうことも多い気がします。他国の文化を少し経験しただけでは消費活動になってしまうので、サシャとニコロのように心をつなぐ交流ができると理想ですよね。

毒親・親との確執

「支配(抑圧)からの解放」を描く本作では、支配者としての親、そこから解放される子の姿も様々なストーリーで表現されています。ここではジーク、ヒストリア、リヴァイが親から解放されるシーンについての考察を書いていきます。

  • ジーク

「これはお前が始めた物語だろ」

進撃の巨人のストーリーを始めたのは、ジークとエレンの父・グリシャです。

幼い頃のグリシャがエルディア人であるゆえに経験したことは確かに悲劇でしたが、その結果マーレへの憎しみに取りつかれ、愚かな復権活動家となって、息子ジークを復讐の道具として支配・抑圧しました。(復讐の道具という言葉は、同じく毒親とも言えるライナーの母が自分を省みて発した言葉です)

ジークは愛されない苦しみの中で「全エルディア人安楽死計画」の立案に至ります。その際幼き日の思い出、自分を抱く両親に向けられた言葉「悪魔の末裔が繁殖しやがって」というシーンを回想します。先に紹介した当サイトの別記事にも書いていますが、人間を人間扱いしないワードチョイス、格好悪い。実に良くない。(このフレーズでオタクだって伝わってほしい)

ジークは実父グリシャを嫌悪しているシーンが複数ありますね。戦闘中に感情が高ぶってしまった自分に対し「はは、何ムキになってんだよ…お前は父親とは違うだろ?」と考えたり、自身を「クソみたいな父親の被害者」と認識しています。

一方、そんな自分の苦しみに寄り添い、本来の父親のような振る舞いを見せてくれたクサヴァーのことを「父さん」と呼んで慕っていました。

ところが、記憶ツアーで謝罪・愛の言葉と共にグリシャから抱擁されたジークは、初めてグリシャを「父さん」と呼んで涙を流しました。それまでは「誇り高き肉片にしてやるよ」などの台詞からジークを好きではなかったわたしですら、こいつ…憎めないな…と思ってしまうシーンでした。

その直後、記憶ツアーがいったん中断した際は「父さん」→「グリシャ」→「父さ…グリシャ」と呼び方が定まっていないですね。ここで一旦ACとしての愛の奴隷から(完全にではないですが)解放されているので、その後アルミンとの対話に向き合いやすくなっているのではないでしょうか。

実は本記事の中でこの部分を一番最後に書いていまして笑、もう他の章でもかなり自分の被虐待エピソードを混ぜ込んだのでどうせならここにも書きますね(オイオイ)

わたしには12歳年下の父親が違う妹がいます。彼女は虐待されていないどころか、非常に愛されて育っています。え、わたしジークポジションじゃん…で、妹に対して嫉妬しないの?と質問されたことがあるのですが、それが無いんですよ。自分と違って愛されている妹を見ると多少心がキュッとすることはありますが、それが妹への妬みの感情につながったことは1度もないですね。そこに関してはジークもそんな感じに描いてくださっていて助かるなと思いました。こういう家族構成の当事者って少数派だと思いますし、当事者だからってわざわざ公言することでもないので、リアルな人間の体験談よりも創作物で社会にイメージが伝わってしまうこともあると思っていて。ジークがエレンに嫉妬して当たり散らす無様な姿とかが描かれなくてほっとしています笑

  • ヒストリア

物語中盤から最後までエレンはヒストリアを尊重していました。それは二人が「自分は生まれてくることを誰からも望まれていなかった要らない子」という痛みを共有しあっているからでしょう。

(補足ですが、エレンとしては、とにかく何かの奴隷状態から人々を解放したいわけなので、壁内のために遺伝子を繋ぎ続ける王家の生き方に家畜らしさを感じ、たとえヒストリアが承諾しても俺はその生き方が嫌いだからさせたくないというエゴも描写されていました)

エレンは母親にこそ愛を注がれて育ってきましたが、結果的にグリシャの業を背負わされ、自分のせいで多くの人々の命が奪われ、生まれてこなければよかったと泣き叫ぶわけです。

その時のヒストリアの台詞でわたしは泣いてしまいました。

「私は人類の敵だけど…エレンの味方。いい子にもなれないし神様にもなりたくない。でも…

自分なんかいらないなんて言って泣いてる人がいたら…そんなことないよって伝えに行きたい。

それが誰だって!どこにいたって!私が必ず助けに行く!!」

これがヒストリアにとっては親への最初の反抗でした。

その直前まで持っていた「お父さんに愛されたい」という一方的で叶わない希望を捨て、精神的に独立し、壁内を襲おうとするロッドレイス巨人を自らの手で屠ります。

自分の手で親を絶命させたというのが重要ポイントだと思っています。主要キャラクター達にはそれぞれ様々な親子関係がありますが、子が親を殺すと同時に精神的にも決別する、というのはヒストリアだけのストーリーです。

少し話はそれますが、ヒストリアの被虐待児としての心理描写がすごくリアリスティックで驚きました。「次は女王の役ですね、任せてください」と青ざめながら話しているシーンは、常に何をすべきか/すべきでないかで自分の言動を決めていて、自分自身がどんな性格で何をしたいのか分からないわたしと重ねられました。数年前にキャリアコンサルタントの方と話をした時に「べきという表現を多用されていますね」と指摘されるまで自覚していませんでしたが、生き残るのにせいいっぱいの環境だった被虐待児は心が空っぽになりがちですね。

  • リヴァイ

父親は不詳、娼館で働いていた母から生まれ、母はすぐに病死。母は迫害を受けているアッカーマン家の人間のため、苗字を教えられず「ただのリヴァイ」と教えられる。

叔父であることを伏せた都の大量殺人鬼から生きるすべのみを教えられ、恐らく10歳頃(?)に”置いて行かれる”。これで愛着障害およびアダルトチルドレン(以下AC)にならない訳がないと思って勝手に泣いてしまう自分がいます。

物語スタート時(マーレ編前)には30代前半ですが、その年でも自分の姓と叔父に置いて行かれた理由を知らないんですよね。

そもそも叔父を叔父だと教えてもらっていないから、勝手に「あいつは母さんの何なんだ、なぜ面倒を見てくれるんだ」と想像するしかない。これは根拠のない推察ですが、ケニーの苗字発覚以降は「もしかして実の父なのでは?」くらいには思っていたかも。(自分の姓はアッカーマン⇒同じくアッカーマンであるミカサと身体的特徴が共通する⇒母の姓は分からないがケニーがアッカーマンであることは分かっている⇒もしかしたらケニーが父親なのか?みたいな思考回路を想像しています。)※ググったところ、2016年ごろのインタビュー記事で「(ケニーを)自分の父親ではないかと思っていた節もありました」と先生がお答えになっているようです

中央憲兵に囲まれて街中で立体起動で戦うことになった際は、酒場に誘い込んでケニーに勝利しました。この頃はケニーの姓を知らず、「育ての親」に対して戦っています。その後ロッドレイスの教会の地下空間でケニーは重傷を負い、瀕死の彼を見つけたリヴァイは様々な質問をします。この対話シーンこそが親との確執からの解放を表現しているとわたしは思っています。

この際重要なのは、「親(のような存在)とずっと離れていたけど、久しぶりに遭遇してやっとまともに会話できるかもと思ったら相手が瀕死の状態になっている」ということです。毒親育ちの方々にはとても自分事として想起しやすいシーンではないでしょうか。

実家から距離を置いていたけど、兄弟から連絡が着て、親の危篤を知るみたいな。言い換えると、「子の側から手を下したわけではないのに親(のような存在)が衰退した」ことが重要であり、自分にとってあんなに大きかった「支配者」が、酷く弱っている状況にいきなり直面するわけです。わだかまりを丁寧に解いていく時間もありません。

そしてヒストリアのように、自らの意思で「支配者」に手を下したのとは全く意味が異なります。なので、アニメオリジナルシーンで、地下空間でのケニーvsリヴァイが描かれ、その際ケニーに刃物で大きな傷を与えた描写はちょっと解釈違いでした…

リヴァイは数えきれないほどの巨人を屠ってきました、巨人の正体が人間だと分かった後も。巨大樹の森でさっきまでそこにいた部下たちがジークの叫びで巨人にされたときも、全員を屠りました。この人は幼少期からずっと、何度も心を殺して異常者の役を買って出てきたのでしょう。でも親のような存在の死に関しては無関係だった。彼の見ていないところでケニーは致命傷を負い、そこにリヴァイの介入はない(実行したのは対話だけ)。というのがわたしが勝手に信じている、親離れ(=抑圧からの解放)の解釈です。

そして天と地の戦いの直後、エルディア人もマーレ人も親子や家族で再会を果たし、それぞれ歓喜の中にいます。アルミンとミカサも、胸中は苦しいでしょうが二人で痛みを分かち合うことが出来ています。

その中でリヴァイだけが、(104期以外の)すべての調査兵団の仲間が亡くなっており、家族もいないため1人きりです。あんな片目片足が潰れた重傷の英雄を1人にするなんて…と悲しく思ったのも束の間、岩陰に座る彼の目から1筋の涙が(´;ω;`)

多分、周りに人が集まっていたら彼は泣けなかったと思います。幼少期から何度も感情を殺して異常者の役を買ってきた彼だからこそ、あのシーンは誰にも見られずに泣くことが出来る救済の場だった。

それでも涙はあふれて止まらないのではなく1筋だけの描写です。そこがすごく感情を殺して生きてきた者らしさを感じます。というのも、自分も泣き方に関しては訓練をしていた過去があります。

弟への身体的虐待を見聞きすると怖くて泣いてしまうのですが、それを母に気づかれると自分がターゲットになるんです。虐待が行われている隣の部屋で布団にくるまって泣いていたら、母が部屋に入ってきて、何故泣いているのか問いただされました。しゃくりあげながら、弟が痛そうで可哀想と説明すると母は激怒します。

「殴ってるこっちの手が痛いんだよ!!!本当は殴りたくないのに殴らされて!!!可哀想なのはお母さんだろぉぉぉ!?!?」

「はいぃぃっごめんなさいお母さんが可哀想です!!!お母さんが!!なのでもう泣きません!!」(当時11歳くらいだったかと)

それからは泣いてしまうたびに自分で訓練をし、静かに泣けるようになったのですが、驚くことに実家を出て一人暮らしをしていても、声を殺したまま泣いている自分が居たんです。癖になっていたんだなと気づきました。

ので、本当はリヴァイも声を上げて泣きたかったかもしれないけど、もし誰もいない状況だったとしても激しく感情を出す泣き方は出来なかった可能性もあるなーと考えています。今までの彼の人生に、感情に任せて泣ける場所も、マインドセットも無かったでしょうから。ちなみにわたしは被虐待児への関わり方を学んでいますが、被虐待児やACが自分の感情などを「説明・表現しない」のか「説明・表現できない」のかは重要な観点です。

エルディア人とばれないようにマーレに赴いた際は、はしゃぐ104期の傍らで、ポケットに手を突っ込んだリヴァイは親元に向かって無邪気に走る3人の子供を穏やかに眺めているように見えます(ラムジーのスリを見抜く直前の場面です、アニメでは描かれず残念でした)。

そしてラムジーを人種的迫害から助けてやり、自分の財布をすられたことも許した。この人は人類最強の殺戮兵士にならざるを得なかっただけで、こういう本質を持っているんだよ…と勝手に泣きました。”躾”や拷問のシーンが印象に残りやすいのでサディスティックな性格だと思われがちですが、それは彼が演じた必要な役割、振る舞いだと思います。

ここまで書くともうバレていると思うのですが推しです。ちなみにこの考察を書くためにリヴァイの人物像をしっかり把握したいと考え、「悔い無き選択」を履修することにしました。基本的にどの作品に対しても原作厨なので、一番先生の考えたストーリーに近いとされるビジュアルノベルを観ることにしました。この時まで自宅にはDVDやBlue-rayのプレーヤーはありませんでしたが、わざわざこれのために購入して、ビジュアルノベルを手に入れるために初回限定版の Blue-ray も買いました。フェミニストはオタクを差別しているという考えに固執している人に響けばよいのですが…(そもそもこんな2万字以上の考察書いてる時点で十分オタクだよ)

またインスタにて花好きであることを公言しておりますが、先日「クシェル」という品種のバラが売られていまして。購入し、許可をいただいて撮影しました。いや…青山フ〇ワーマーケットの店員さん、絶対に進撃のオタクが居てこのポップ書いたでしょ…!(歓喜)幼児期以降~成人期のいつでも良いのでリヴァイがクシェルお母さんに抱きしめられているところを見てわたしが安堵したい。…なぜこんな推し語りをしているのかは、最後のまとめの章を読んでいただけるとお分かりになります…。

反出生主義

※作品内で反出生主義という単語は出てきていませんので、 よくご存じない方はWikipediaをどうぞ

反出生主義者として描かれていたジークですが、アルミンとの対話によって「またキャッチボールできるなら生まれてきても良いかな…」と、心境に変化がありました。これによってジークはリヴァイに屠られることを選び、それが地ならしの進行を止めることになったので、進撃の巨人の物語としては反出生主義を否定した、という結末になっていると言えます。

単にジークが負けたということだけでなく、「ジークとは反対の思想」として表現されたオニャンコポンのような平和と多様性の思想が人類を一時的にでも結託させたことも含めて…反出生主義の完敗でした。

では、この作品は反出生主義を否定する目的で書かれたのかと問われれば、わたしは違うと答えます。理由は2つあります。

まず1つ目の理由から。反出生主義の根幹には「人生は苦痛だらけであり、生まれてくる条件も選べないので、生まれてこない方が良かった」という考え方があります。その点進撃の巨人の世界は、何度も何度も「この世界は残酷だ」と反復されているように本当に惨い世界ですから、「こんなつらい想いをするなら生まれてこなければよかった」と考えていた人はジーク以外にも多数いたはずです(描写すらされていないモブだとしても)。キャラクター達の悲惨な人生も残酷な描写も、つい「2次元の世界でのこと」として軽視してしまいがちですが、もし本当に自分や親族が突然意思のない化け物にされてしまったら?あるいはその化け物に食べられたら?そんな運命が、生まれた時から人種によって決まっていたら…?ちゃんと、今、目の前でそれが起こっているかのように想像すると、死んだほうがましな気持ちになる気がします。諌山先生はきちんと、生きることがつらいことだということを、繰り返し表現してくださっていると思います。

そのうえでこのような結末にしたのは、「ほらやっぱり、生きてると良いこともあるし、人生って素晴らしいよね(キラキラ)」というメッセージではなくて、「どんなにつらくても人生を継続せねばならない状況の人達に一種の希望や勇気を見せる」意図があったのではないかと思うのです。

実際、人生がつらいな、希死念慮があるなぁ、という方々(PERiPEN_自身を含みます)は、心の底から”死そのもの”を渇望しているというよりは、この苦しみから解放されたいというのが一番のニーズであって、死ぬことが目的では無い方も多いですよね。「死にたい」を「この苦しみが無くなった状態で生きたい」に言い換えられるようなタイプです。(でも、”この苦しみが無くなった状態”になることは不可能だからやはり救済には死しかない。という考えの方もいらっしゃいます)

少なくとも、そんなわたしにとっては、自分よりずっとエグい人生を送ってきた人(架空ですが…)が、またキャッチボールの幸せを味わいたいと思っている様を見ることは、小さな救いのようでした。死か、生か、どちらを選択しようにも別種の苦しみが待っている…と思いながら生きている毎日だったのが、ほんの少しだけ、「生」の方に向いた羅針盤を貰ったみたいな。(もちろんその羅針盤を使わなければいけない義務なんてありません、進撃の巨人を人生のバイブルにするかは1人1人の選択です)

2つ目の理由は、出生主義も反出生主義も本作品のメッセージである「自由(支配から解放された状態」に反するものだからです。結末部分に着目すれば反出生主義が否定されたように見えますが、作中で「出産・家系の維持を強制されるなんて、ヒストリアは家畜じゃないんだぞ」という部分も描写されていました。「産め」も「産むな」も他人の人生への支配(過干渉)なので、作品のメッセージとしてはどちらも否定されるものだと思います。

血統主義

本作、くどいくらいに「王家の血筋が…」のような表現が出てきますよね。これは絶対意識して描写されているのだろうと思っていたら、キャラブック内の作者インタビューで諌山先生が言及なさっていました。

エレンは映画などで描かれる「選ばれし才能を持つ主人公」とは真逆のキャラクターです。僕自身が血統主義のようなものに疑問を抱いていたので、「才能に恵まれていない奴」にしています。

キャラクター誕生秘話Part.1より ※太字はPERiPEN_による

わぁ、そうなんだ!作者の意図を読み取れてうれしい!

…はい、これ以上特に書きたいことはないです笑 本作品と血統主義について語れるのは、様々な少年漫画作品を長年追ってる方とかじゃないでしょうか。自分は小学生の頃、児童館にONE PIECEとNARUTOの単行本があったのを読んでいた程度なので語れないですすみません。エースのお腹に風穴が空いたところまでしか読んでないです。

ジェンダー

  • 様々な形で「抑圧からの解放」を描いた本作の、メインテーマが「女の子らしさからの解放」

作中で唯一「女の子らしく」という表現が出てくる場面がありました。フリーダがヒストリアに読み聞かせていた、始祖ユミルについての絵本の場面です。そう、「女の子らしさ」とは「始祖ユミルらしさ」のこと、つまり女性を「抑圧」し「奴隷」たらしめる概念なのだという、強烈な皮肉のきいたメッセージなのです。

しかもこの「女の子らしく」という概念は現代社会においても多くの人間を性別とわず呪縛し続けています。抑圧からの解放という本作のテーマにぴったりだと思うのですが、それを描いていたアニメ88話のリアタイ直後にTwitterでサーチしても、この件をツイートしている人は5人くらいしか居なかった。。。リアタイツイートは #shingeki のハッシュタグ付きだけでも数千件ですから、気づく人の少なさに日本らしさも感じました。

ユミルはフリッツ王によって奴隷にされ、舌を抜かれ目玉をくり抜かれ森に追放され、その後巨人の力を手に入れるとエルディアの戦争兵器として利用されました。さらには「我の子種をくれてやる」という胸糞台詞を受けて3人の娘を出産します(恐らく3人とも年がかなり近い…多産DV…)

それなのに、フリッツ王を狙った裏切りの槍に対して咄嗟に王を庇います。あのシーンの描き方から、私は「夫に心配してほしい」というユミルのメッセージを感じました。こんなに尽くしていたら、いつかきっと愛されるはず、と思ってしまうのは自然な感情だと思います。実際、DVなどの被害者が加害者により一層依存してしまう心理はめずらしいものではなく、イギリスでは夫に殺されかけた妻が嘘の証言をしてまで夫を庇った裁判もあります(ソース:ガーディアン)。ストックホルム症候群も有名ですね。

ところが王は「立て、お前が死なぬのは分かっている」と冷たく言い放ちます。それを聞いたユミルは、このような痛みや屈辱に耐え続けても愛されることはないという客観的事実を悟り、巨人の力で蘇生することを選択せず絶命したのでした。進撃の巨人では、ストーリーのかなり最初の方から「巨人の力(アッカーマンの力含む)」は目的が無いと発動できない、ということが描写されていましたよね。ブレのない設定、すごい…!

そんな「女の子らしい」ユミルは作中で2段階に分けて救済されました。

1段階目は、エレンによる「お前は奴隷じゃない、神でもない、人間だ、自分の意思で選べ」です。あの時初めてユミルの瞳が描写されました(フリッツ王が「奴隷に目玉は2つも要らぬ」と言っていたように、瞳が描かれることで人間らしい表情を見られるようになりましたね)。

2段階目こそが完全な救済であり、本記事冒頭にも書きました「ミカサがその手でエレンを殺すこと」です。フリッツ王もエレンも、巨人の力を行使してたくさんの人命を奪っていましたが、そんなエレンを誰よりも愛していたミカサの決断に、ユミルは自身を重ねたのです。Final season Part2 の最終話(2022年4月3日放送)では、ミカサの心境の変化と、エレンの生まれ持った異常性(と周囲への愛)が表現されていましたね。

あなたのことは愛しているけど、あなたの行動は支持できない、さようなら。」ユミルは2,000年間、自分のロールモデルを探し続けていたと言っても良いのではないでしょうか。

だから女性には、様々な抑圧から解放された女性のロールモデルが必要だと思うのです。ちなみに日本も100代の総理大臣の中に女性が1人も居ませんが、女性の政界進出における幾つもの「抑圧」を乗り越え「解放」されたミカサポジションの女性が現れたらどんなに良いか…といつも思います。

PERiPEN_
PERiPEN_

わたし自身は政治分野には適性がないと思いますが、女性社員の少ない弊社(今のプロジェクトなんて女性は自分しかいません)においてロールモデルになることを目指していて、かつ虐待サバイバーを支援する社会起業家としても後続の女性たちを勇気づけられたらいいなと事業計画作成中です。

ただ、この始祖ユミルのストーリーについては、あまりに凄惨なことから「いずれ救われる設定だとしても、フィクションの世界でまでこんな内容を目にしたくない」という方もいらっしゃいます。虐げられていた奴隷が自分を取り戻すというマイナス⇒ゼロへのストーリーに勇気づけられる人もいれば、フィクションの世界くらいでは一切の女性差別を感じずに楽しみたい、という人もいて、そこは完全に好みの話だと思います。PERiPEN_個人としては、「自分を虐待してくる親から愛される日がいつか来るのでは」という夢を何年も捨てられずに尽くしていたことが重ねられるので、勇気づけられる物語でした。(最後の章で長文自分語りしますが、異性愛関係においても愛の奴隷でした。4歳ごろからの児童虐待によって染みついた、奴隷の思考回路に染まっていたんです)

・「あらゆるものを反対に描いた」世界

文字や地形など、本作の中にはたびたび現実世界を反転させたモチーフが使われていますよね。黒色人種であるオニャンコポンの故郷の街並みがイギリスの景観に似ていたり。そんな本作で特にわたしが注目した「反転描写」は、①男性キャラのアルミンが性被害に遭ったこと&他キャラの反応②血統主義において女性が排除されていないこと の2つです。

①アルミンへの性加害者は、大変気色の悪い「悪」として描かれていました。勿論それは、「この世界は残酷だ」を表現する手段の1つとしての”性犯罪”だったと思います。ヒストリアも何度か拘束されているシーンがあるので、それを使って「騒げない状態のヒストリアにセクハラ」という描写をねじ込むことも可能ではあったわけです。しかし本作では、アルミン(男性キャラ)が被害を受け、サシャ(女性キャラ)が馬鹿にして笑い、ジャン(男性キャラ)が慰めるという描かれ方でした。これは現実の性犯罪にまつわる人々のかかわり方を反転させていると受け止めています。

※現実の性犯罪にまつわる人々のかかわり方…全ての女性男性にあてはまるわけではなく、あくまで割合の話ですが、Twitterにて性犯罪のニュースツイートがバズると、リプ欄では被害を茶化す男性が数えきれないほど観測されます。被害者の自己責任論を問う人は性別関わらず居るのですが、サシャのように茶化すのは男性である割合が高いというのが客観的事実です。また、日本のインターネト史では長年にわたり、「女さんが死んだらageるスレ」「きちょマン」のような悪しき文化が形成されています。全ての男性がそうではありませんが、一部の男性の女性・性被害に対する倫理観が酷いという現実をミラーリングさせたものだろうという考察です。

後程、先生のインタビューを引用し同じことを述べますが、別に本作では現実のすべてをミラーリングして描写しているわけではありません。性被害に関していえば、ミカサと母親が人身売買目的でさらわれていますし…。ただ、「男性へのセクハラシーン&女性からの嘲笑、被害者への同性からの慰め」というわざわざ描かれた表現から「このリアルな世界は残酷だ」ということが伝わることを願ってやみません。

② 血統主義において女性が排除されていないこと 、は女性/女系天皇が話題にあがっている(そして大きな反対の声も寄せられているし実現されていない)日本においては、わざわざ反転させて描写しているのだろうなと感じました。巨人の歴史が始祖ユミルと3人の娘から始まったのもそうですし、ロッドレイスの子供達の中から始祖の巨人を継承したのがフリーダであることも、王の血を引く生き残りというポジションのキャラがダイナやヒストリアであることもです。(天皇というポジションや始祖の巨人の継承というポジションを、受け継ぐ本人や受け継がせる周囲・社会がどう捉えているかということは今はスコープ外です)

以下にキャラクター名鑑から諌山先生のインタビュー部分の引用を置いておきます。

今までは「無いこと」のように描いていた性差ですが、より近代的なマーレ軍を描く際、パラディ島と同様に女性兵士の存在を説明もなく入れ込むと先進的に見えかねない絵面となり、大きな違和感になっていたと思います。

未成熟な時代を描く限り、女性が不当な扱いを受けた実際の歴史を無かったかのようにして、軍の上層部などに女性のキャラを描くことはできなかったですね。架空の世界の物語ですが、どこかで現実と繋がっていないと無関係な話になってしまうと思ったからです。

進撃の巨人 キャラクター名鑑 FINAL ※改行と太字はPERiPEN_による

・なぜ瀕死のジークは無垢の巨人の腹に収納されたのか

この描写、自分にとっては不可解で気持ち悪く感じる絵・表現でした。巨人には生殖器がないはずなのに、なぜわざわざ女性に見える無垢の巨人が、「腹」に、大切そうにジークを収納したのか…生殖器はないけど、子宮を想定しているだろうなという薄気味悪さだけを感じていました。

このシーンは、まだ奴隷マインドの始祖ユミルが、王家の子孫であるジークを死なせてはならないと思って無垢の巨人を操り、「道」に導く…ということが描かれているわけですよね。で、ジークを巨人の力で修復させるには、同じく「道にある砂的なもの」を材料としている無垢の巨人から肉体を分け与えられる(受肉…?)というのも理解できます。でも、腹を引き裂いて入れるという方法で描くことにしたのはなぜだろう?というのがわたしの疑問です。

数か月間のわたしの考えは、次のようなものでした。ジーク復活の瞬間を何か神がかったような演出にするためにー生命の神秘だ、奇跡の子だ、みたいな感じを表現するために「母なる子宮から再生(誕生)した、全裸のアダム的何か」というシーンにしたかったのではないか。

いったいどれだけの分野の勉強をしたらこんなに造詣の深い物語をうみだせるのか、と思う先生ですら、女性性と子宮を結び付ける安直な表現を踏襲されるのか?それとも作品内のどこかで宗教画っぽさをオマージュしたかった?本当に理由はそれだけか?ということを、冗談抜きで3か月以上考えていました。

で、結局これが正解だと思う考察には至っていないのですが、ひとつ納得できる選択肢として、始祖ユミルの苦しみを表現する一端を担っているのではないかと考えるようになりました。

自分を利用することしか考えていない男に妊娠させられたこと、出産そのものの心身への負担、フリッツへの愛憎、諸々が煮詰まって追い詰められた立場だったら、「あんた(ジーク)さ、王家の子とか言ってるけど2,000年前のわたしの苦しみを分かってんの…?」と当てつけの1つくらい言いながら受肉させたくなる気もします。彼女自身が自覚していなくても、フリッツへの大きな憎しみは深層心理に抱いていて、ここでちょっと顔をのぞかせたというか。始祖ユミルの苦しみを象徴するモチーフがいくつかあって(家畜小屋や豚や目玉)、そのうちの1つが子宮であり、他の方法でもジークに受肉させることはできたけどあえて腹の肉を引きちぎったみたいな…。性被害に遭った方が自分の身体への認知に苦しめられる(汚らしく感じて子宮を取り出したいという強迫観念にかられたり、逆にもっと汚そうとして自傷行為としての性行為を選択してしまったり)というのは珍しいことではありません。始祖ユミルも自分の生殖機能・臓器に関して何か思うところがあったのかなという考察です。

正解は分かりませんが、もしそうなら、始祖ユミルの苦しみを描いてくださってありがとうございますと思います。

PERiPEN_
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言うまでもなく最高な点として挙げるのは、主人公3人の中で「力(戦隊ものでいうとレッド)」を担当するのが女性キャラのミカサであることですね…!ミカサ大好きです。あの腹筋に憧れて筋トレ頑張れています笑

PTSD(心的外傷後ストレス障害)

PTSDに関してはライナーというキャラを通して描かれていました。しかし、ライナーの発症が早かっただけで、天と地の戦い終了後の本作の世界では、生き残った多くのキャラクターがPTSDに悩まされて過ごしただろうな…と勝手に思っています。

もちろん、諌山先生が描いているのは「進撃の巨人」という架空の世界の中の、一部のキャラクターの視点です。選ばれし英雄たちのストーリーを主に描いているので、メインキャラクター達の心は鋼のように強く、PTSDになんてならないはずだ!という読者の方々もいらっしゃると思います。これは完全にわたしの偏見による考察です。

しかし戦争によるPTSDというのは現実にも起きている大変な問題です。米軍経験者の自殺率の高さや、大戦後の帰還日本兵の「戦争神経症」などはご存じの方も多いかもしれません。ライナーの人格の分裂をわざわざ描いたのは、気味悪さの演出とかエレンをブチ切れさせる(”お前らがなるべく苦しんで〇ぬように努力するよ…”)ためではなく、もっとリアルな「洗脳され利用された子ども」を表現するためだと感じました。

試しに、天と地の戦い後の存命推しキャラがPTSDに苦しむさまを想像してみてほしいです。わたしの場合だと、リヴァイが悪夢・白昼夢にうなされて衰弱していく感じですかね。

自分が殺した部下たちの顔が鮮明にうつり、自分が責められ続けるような夢とか。「人から暴力を奪うことはできないよ、ねぇ兵長」とイェレナから言われたように、人類最強の力をもって地下からここまで生き延びてきた彼ですが、その力が全く無くなった状態ですし…歩行もままならない、片目の、指を数本失っている、何も特別ではない40歳近くの負傷兵です。同じ心の痛みを共有できる者たちは女王だったり平和大使になっていて、天涯孤独と弱い肉体という事実を突きつけられながら、自分が殺した人々の夢を見る日々。最初はガビとファルコが車いすを押してくれ、オニャンコポンが少し世話をしてくれたとしても、それが死ぬまで続くでしょうか?

また一度は自身の毒を反省した母・カリナですが、ライナーはその後ずっと母親とうまくやれたのでしょうか。俺を、仲間たちを、世界をこんな目に遭わせやがって!と怒りをぶつけては子供のように号泣したりしないでしょうか。そう泣いて主張して最もだと思うのですが、カリナにはカリナの言い分があり、また親子仲がこじれ二人とも病んでいく可能性もゼロではありません。

何よりもう1人の推しでもあるミカサは、自分があの時家族と答えなかったらエレンは虐殺を思いとどまって、わずか4年の間だけでも幸せに暮らせたんじゃないか?とか、自分が9歳の頃から抱いてきたエレンへの恋心は、エレンの生得的異常性を自分に都合よく解釈して惚れていただけで、10年も大犯罪者を好いていたのか!?とか、でも未だに好きだからわたしも異常だし同じくらい大犯罪者では?とか、病んでしまう原因はありすぎますね。。。( ミカサの場合は最初からトラウマによって物語が始まっているので、今更PTSDなIFを想像するのは難しいですが)

ミカサにはジャンが付いていてくれたように見えますが、他のキャラ達全員にも支えてくれる人っていたのでしょうか。最初はいてくれても、だんだんPTSDの症状がひどくなって対人関係に悪影響を及ぼすようになると人って離れていきますし…。

最後に全体的なまとめ

私の推しはミカサとリヴァイなのですが、それは二人とも「愛した人(エレン)/信じてついて行った人(エルヴィン)の、人間としてダメなところをちゃんと認めて、自らの判断で裁いた」からだと思います。

リヴァイが人類の英雄・アルミンを生かし、ミカサがエレンを殺したからこそ、この結末になりました。かつて王家に仕えたアッカーマンの2人の選択が始祖ユミルを愛の奴隷から解放したなんて、ムネアツすぎます…!(という理由でサムネイル画像を描きました)

ここで、推し語りの理由を開示しますが…王家とか英雄とかは関係なくても、推しのような人生を歩んできた人がリアルに存在することを認め、その人を推しの様に尊重することが人類の協調につながると思うんですよね。

推しの設定はすんなり受け入れ、あまつさえ愛したりするのに、リアルの人間の生い立ちを聞いて「被害者ぶってる」「自力でなんとかできたはずなのに自己責任だろ」とかいう人に言ってます。

声が好きな声優じゃないから、顔が違うから、異次元な設定が無いから愛せないですか?

そりゃあ「愛する」の段階までいくなら自分の好みかどうかは妥協できなくても仕方ないと思いますが、推し活を通して、現実の人間への理解力を深めたりできたら素敵だとわたしは思うんです。2次元の推しは好きな設定・要素をいくらでも盛り込めるから、(どんな汚点を持っていたとしてもそれすら)「完璧」な存在じゃないですか。 ここからは少し長いですが、わたしが異性愛関係において愛の奴隷だった頃の話をします。

わたしは他人の顔面に関心がなく、今まで交際してきた男性もnotイケメン、身長も高くないです。本当は声フェチなのですがそれすらも叶えたことはなく、常に「人として信頼できそうか」を基準に、非モテオタク君みたいなタイプとばかり付き合ってきました。何よりも「怒鳴らない、殴らない、静かで誠実な人と信頼関係を築くこと」を求めていたデミセクシュアルだったからです。ただしそこは被虐待児、他人を判断する能力が未発達だったのでハズレ経験ばかりです。容姿も声もあれで性格もよくないってどういうことだってばよ。(こういうことがあるので、わたしには理解できない価値観ではありますが、どうせクズなら顔面で交際相手を選びたいという女性がでてくるのも理屈としては分かります)

ある人は「人種差別」の項で登場した艦娘提督で、歴代で一番のミソジニストでした。TVに出てくる女性タレントは逐一容姿ジャッジせずに居られない人だったし、彼の目の前で性被害に遭った(路上で酔っ払いに抱きしめられて自力で逃げ出した)わたしにブチギレしてきたので別れました。ある人はエロゲとアイドルが好きなと〇ドラ!オタクで、わたしに捨てられたら死ぬとわめく癖に常に浮気願望を捨てられないようなので別れました。わたしは虐待の心の傷が深いから信頼を裏切ることはしないでほしい、と何度も説明してあったし、結婚の話まで進んでたのに裏切れるのすごいなって思います。ある人はオナホコレクターを自称していて、3次元児童ポルノ所持者で、当時はわたしも未成年でした(これ以上は察せますね)。 …なので、Twitterで「俺は無害で優しい男なのに女から選ばれない→加害するようなチャラい男と付き合った女が不幸になるのは自業自得だ」みたいなの全然理解できないんですよね…非モテ系オタク彼氏(?)に捨てられたくなくて出来ることは何でもやって、非モテ君が2次元に求めるような理想の彼女になるために整形寸前まで追い詰められて気づいたのが、「この人たち、わたしという人間を好きになってないんだな」ってことです。彼ら(たまたま非モテオタク君としか交際経験ありませんが)にとってわたしは始祖ユミルだったんですね。都合がよいだけなので代替可能なんです。自覚しながらナンパ師やってる勢よりずっと可哀想だなと思います、自分が愛していると思いこんでリソースをつぎ込んでいる彼女が代替可能だなんて。(ちなみにわたしはPERiPEN_としての発信を始めた2020年5月よりも前からナンパ師界隈を批判しております)

※自分が被害者とも元彼が加害者とも書いていないのに勝手にそう感じ取ってしまう方に向けて補足しておくと、そういう話じゃなくて、わたしは始祖ユミルと同じ愛の奴隷だったってことを書いてるんです。相手の望むことをなんでも叶える都合の良い女になれば、相手がわたしに依存して離れられなくなるだろうし、いつか愛してくれるだろうと考えていたからです。それは部分的には功をなしていて、交際期間は短くても1年以上、長くて2年以上でしたし、数人からは結婚を申し込まれたりしていて、元彼側もわたしを愛していると錯覚していたと思われます。ただしそれとは別に、交際には同意していて性行為を好んでいても酷い性暴力を振るわれることはあるし、わたしのように保護者のいない少女を狙った交際って、フリッツが奴隷を手に入れる手段と同じくらい一方的で、わたし(始祖ユミル)に選択肢なんてなかったと思うんですよ。そして、このような女性はわたしや始祖ユミル以外にも現実に大勢います(ネットのおかげで可視化されつつあるし自分のこういう経験談ツイートもバズったので)。でもそれを具体的に書けよって言われても、もうそういう人には話が通じなくてセカンドレイプされるだけだって身をもってわかってしまったので、当サイトで性暴力の詳細な内容を公開することはありません。聞かれても答えないしTwitterのフォロリクも通さないです。

長くなりましたがそんな理由があり、もう自分の判断力は信じないですし、ゆえに異性愛関係を結ぶこともありませんが、ヒストリアと孤児院を手伝いたいし、ハンジさんと技術の仕事がしたいし、ミカサと友達になりたいし…って色んな愛の妄想をします。それを現実で叶えれば良いと思っています。

クソみたいな奴だなと思う人間がいても、ジークやエレンやライナーのことを思い出すと、「…このクソにも事情があるかもしれんから対話してみようかな」と思えてきませんか。

いや、思えなくても全然いいです。わたしはそう思えるので、森から出る手段としてクルーガーの「壁の中で人を愛せ」を実行したいです(息子を復讐の道具として支配したグリシャへのセリフです)。日本語の「愛」「恋」ってかなり失敗訳だと思っていて、「あなたのことが好きです」じゃなくて「あなたのことが友愛(フィリア)の意味で好きです」みたいな表現ができる言語だったら良かったのにな…と個人的には思っています。たまに、男性は性欲に支配されている被害者だみたいな主張を目にしますが、ちゃんと自分の気持ちの高ぶりを分析して、「本当に愛する人」を見つけられるよう願っていますよ。今のこの国は街中のいたるところでエロス(性愛)だけを刺激され、それが健康なものであるかのように擁護されますが。そして、フェミニストの中に過去の交際相手から性暴力を受けた方が多いことを取り上げて、「そんな目に遭って当然なくらい、女としてクオリティが低いんだろ」とか「愛されなかった妬みからフェミニストになるんだろ」という暴言もまかり通っています。うーん、わたしは「愛している(信じていた)人を自ら裁いて、愛の奴隷から解放された、そして今は自立して過去最高の幸せを謳歌している」立場なので、あんまり刺さらないなぁと思いますけどね。最期のユミル、穏やかな笑顔だったじゃないですか。あれなんですよ…もうフリッツに何の未練もないし、ユミルが奴隷にされたのは”ブスでレベルの低い女”だったからじゃないですよね。 本記事冒頭で確認した主題、「何かに支配され、奴隷状態でいることからの解放、そして自分の人生を自分で作っていくこと 」 絶賛実行中で超楽しいです。(女性が自分1人で生きていこうとしても入試・就職・昇進で差別されたり、ただ人生を楽しみたいだけなのにいきなり性被害に遭ったりする現状があるので、フェミニズムが必要だなぁと個人的に思うわけです)

「手に入れたい女から自尊心を奪って言うことを聞かせる方法」なんかを売っている恋愛工学やナンパ師は現代のフリッツのように見えます。でもフリッツって権勢欲や支配欲が満たされていただけで、臣下に裏切られてるし、別に幸せそうじゃないですよね。進撃の巨人のメインストーリーが「支配・抑圧からの解放」であるように、相手を支配しない、本当に幸せになれる「愛」を手に入れられる人が増えることを望んでいますし、そのためにはインセル・ミソジニストの主張に反対していたいんです。(余談ですがフェミニズムのフの字も知らなかったわたしがフェミニズムに興味をもったきっかけは、当時のTwitterアカウントにインセルやミソジニストのヤバ理論が流れてきて「噓でしょなにこれ」と衝撃を受けたことです)

愛を欲しがってしまう性質そのものは悪でもなく、多くの人が持っているものだと思いますが、それはつまり誰もがフリッツにもユミルにもなり得る危険性があるということではないでしょうか。わたしは本作品のおかげで、何種類もの、勇気ある「解放」エピソードを知ることができました。4歳から培われてきてしまった奴隷的思考回路に従わずに生きるための、超重要レファレンスです。(ここまで自身を何度も奴隷に例えて書いてますが、それは他人に向けてやるもんじゃないです)

ちなみに異性愛関係を持つ気のないわたしがどうやって人を愛するかというと、今は当事者として虐待サバイバー支援事業計画をブラッシュアップしていたり、こちらの記事のような分野や、臨床心理の勉強をしています。サイト理念にも書いていますが、世界に少しでも愛と平和を増やしたいです。生ぬるい道ではないのでぼろ雑巾になりますけどね

最後に、本作のメッセージ「支配からの解放」に合わせ、冒頭で紹介したモノローグ部分を虐待(毒親)サバイバーバージョンにしてみました。

「自分が明日も生きられるか それを決めるのは自分ではない すべては親に委ねられる

なぜなら自分は 親に勝てないのだから

だがあるサバイバーの 心に抱いた小さな刃が 親を突き殺し その巨大な頭を大地に踏みつけた

それを見た自分は何を思っただろう ある者は誇りを ある者は希望を ある者は怒りを 叫びだした

では自尊心を奪還したなら 自分は何を叫ぶだろう

自分はまだ生きていいのだと 信じることができるだろうか

自らの運命は自らで決定できると 信じさせることができるだろうか」

自分を支配し不幸にしてくる人間関係に悩んでる人は、ミカサと始祖ユミルに勇気をもらって解放されてほしいです!!! 自尊心の畑、焼き尽くされると新芽が出てくるまでに数年~数十年かかるので、早いうちに手を打ちましょう(´;ω;`)

こんな2万字以上の考察をお読みくださり、ありがとうございました!SNSに引用したりする前に、必ず利用規約をご確認ください。※原作者の諫山先生はエゴサーチをなさることがあるということなので万が一のために付しておきますが、諫山先生はスクショでもリンクでもお好きに本記事をご利用くださいませm(__)m 本作品が世界中に展開され、様々な感想が寄せられていると思いますが、わたしは本作品から多大な勇気をいただいた読者の1人です。本当にありがとうございます。10年間大変お疲れさまでした。